薩摩焼について
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薩摩焼とは

薩摩焼の歴史は豊臣秀吉の朝鮮出兵(1598年慶長の役)に加わった薩摩17代藩主島津義弘が多くの朝鮮人陶工を連れ帰ったことにはじまります。
藩主義弘は千利休門下の茶人でもあり、茶器をこよなく嗜好していました。そこで義弘は領内に陶器窯を築く事を強く望んでいました。 また藩の産業振興の目的もあり多くの朝鮮の人々を連れ帰ったものと思われています。 これは薩摩藩に限らず九州諸藩や長州の諸大名も同様であったと思われます。
その様な事から、この慶長の役を俗に「やきもの戦争」とも言われております。
薩摩藩はこの出兵への巨額な支出と関ヶ原の合戦の敗北もあり、最初、朝鮮人陶工達には不遇の時期がありましたが、後には藩が庇護し保護されていました。
この多くの優秀な朝鮮人陶工達が薩摩焼の礎となり、現在の私たちに継承されていくわけです。
当時の 薩摩焼は大別して二つに区分されます。
一つは「しろもん」(白物-白薩摩)でカオリンや陶石を主原料とした陶土で釉薬はガラス質の透明釉を使い「藩専用の焼き物」です。
もう一つは「くろもん」(黒物-黒薩摩)と呼ばれ粘土、釉薬とも鉄分を多く含んだ雑色釉で主に庶民の食器として使用されました。
昔から日本では白馬、白鶴、白犬、白蛇などの様に「白」を清純かつ神聖なものと考える傾向がありました。特に封建制の強かった薩摩藩は、何事にもよらず藩主と庶民を区別していたようです。



薩摩焼とパリ万国博覧会

1867年 慶応3年フランスで第2回パリ万国博覧会が開催されました。
薩摩藩は1862年に起きた生麦事件や薩英戦争敗北の経験から欧米列強との間に格段の差がある事を身をもって実感していました。そこで薩摩藩は西洋の科学技術や軍事技術を導入したく、欧州に急接近しフランスにも留学生や使節団を派遣し既に関係を持っていました。
薩摩藩はこうした経緯の中、仏国政界に精通した実業家モンブランの協力で、この博覧会へ「琉球王使節」という名義で幕府と並び参加する事になりました。
この事は欧州諸国に薩摩藩が幕府とは独立した対等な国家であるかの様な印象を与え、幕府との間で政治闘争の火種になりました。
当時フランスでは要人達の間に勲章制度が確立しており、モンブランの助言もあり薩摩藩はこの開会式で「薩摩琉球国勲章」を贈呈した事が薩摩藩を欧州諸国にアピールするのに非常に効果的でありました。
出展した豪華絢爛な薩摩焼は同時に薩摩藩の産業のすばらしさを認めてもらう結果ともなりました。それ以来白薩摩の人気が急激に高まり 、「SATSUMA」ブランドとして国際的に受け入られ、横浜や京都でも薩摩焼風の金襴錦手の絵付けが施され、海外へ輸出されました。これらの焼き物を横浜薩摩や京薩摩と呼ばれています。薩摩焼とは少し作風が異なり外国人好みに生地が見えない位、すき間無くびっしりと絵付けが施されているのが特徴です。
その中には「薩摩ボタン」といった女性の服を彩る装身具もあり、欧米の人々には華やかな絵付けの施された薩摩焼「SATSUMA」はまるで宝石の様に美しく映った様です。
2007年にはこの博覧会から数えて140年にあたり、フランス国立陶磁器美術館(セーブル美術館)において「薩摩焼パリ伝統美展」が開催されました。



薩摩彫刻陶芸窯元
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